「白き聖女の福音」

明日は儀式の日!




 大切な儀式を明日に控えた夕方、聖女シェスカは聖シュレーゲン教会の聖堂にいて、ひとり祈りを捧げていた。
 聖堂には濃い香の匂いが立ちこめ、きりりと身が引き締まるような空気が漂っていた。
 儀式を行うための準備はもう全て終えていて、あとは当日を待つのみとなっていた。
 ローエングリン国王にかかっている闇の呪いを解くという大切な儀式である。
 この儀式を成功させられるのはシェスカ以外にいないと推してくれた聖人たちのためにも、失敗することはできない。
(明日、滞りなく儀式を終え、ローエングリン国王が闇の呪いから解放され、光の道を歩みますように……)
 一身に祈り続け、瞳を開いた時には窓から落ちてくる光が橙色に染まっていた。
 シェスカは跪いていた体勢から立ち上がり、中二階の窓を見てから、さすがに長い時間この場所に留まりすぎたとそのまま立ち去ろうとしたのだが。
「……ずいぶんと熱心に祈っていたようじゃな」
「ゲオルク様、まさかいらっしゃっているとは」
 五聖人の長老であるゲオルクが柱の陰から現れた。
 このリンデブルグ国にある教会を束ねている聖人たちの長にしては、やけに気楽な登場だ。どうやら供の姿もない。
 ゲオルクは長く白い髭を蓄えていて、いかにも聖人の長老という姿をしている。
「ええ。明日の儀式のために心を落ちつかせようと思いまして」
「そうじゃな。いくら聖女のシェスカとはいえ、緊張するのは当然じゃ」
 ゲオルクは腕を組み、重々しく頷いた。
「なにしろ、自身が闇の眷属の者ではないかという疑いの濃い、あのローエングリン国王の呪いを解くなどと」
「ええ……そうですわね……。あの、ですがゲオルク様。聖人として一国の王をそのようにおっしゃるのはあまりよろしくないことでは……」
「わしは、無理にあの者の呪いなど解かなくともよいと言ったのじゃ。今でも厄介な存在じゃというのに。あの者が昼夜問わずに動けるようになると、もっとややこしい事態が起こるとも限らない」
 そう、ローエングリンの闇の呪いとは、太陽の光にあたると肌が焼け、生まれる子供は悪魔になるという呪いだった。今は昼は寝て、夜に行動するという生活をしてるそうだが、呪いが解ければ昼の時間も自由に行動できるようになれるのだ。
「いえ、しかしですね……。呪いにかかっているという状態はそれがどなたであれ、好ましくないことですから」
「……シェスカは聖女というその名に恥じぬよう、心まで清らかなのじゃな」
 はー、やれやれ、とゲオルクは首を横に振った。
「わざと失敗しろとは言わぬが、なんとか呪いの一部でも残しておくことはできぬかのう? たとえば、太陽の日に当たると肌が焼けるまではしないまでも、ちょっとした軽い頭痛がして動けなくなるとかじゃなあ」
「あ、あのですね……ゲオルク様……」
「カッカッカ! 冗談じゃよ!……ふぅ……」
 その最後のため息がとても気になるんですけど、と言うよりも前に、ゲオルクは腰を叩きながら歩いて行ってしまった。
 あれは一体なんなのだろう……と考えて、恐らく大切な儀式の前でがちがちに緊張しているシェスカの気を紛らわせてくれたのだろうという結論に達した。
(きっとちょっとくらい失敗しても構わないから、気負わずに事に当たるように……とのことですわよね)
 ゲオルクの不穏な発言は忘れてそう思うことに決めて、シェスカは今度こそ聖堂から立ち去ろうとしたのだが。
「こんなところでどうしたのだ、シェスカ」
 扉が開く音がすると同時に聖人のひとりであるジークフリートが声をかけてきた。彼は教会衛兵団長も兼ねている、聖職者にしては上背があり体つきががっしりした軍人ふうの青年である。
「明日は大切な儀式のはずだな? もう休んだ方がいいんじゃないか?」
「ええ。祈りは済んだので、もう自室に戻ろうと思っていたところです」
「それがいい。明日はあのローエングリン国王と密室でふたりきりにならないといけないのだからな」
 密室でふたりきり。
 なんだか語弊があるような、と考えて首を横に振った。聖女なるもの、そんなことを考えてはいけない。ジークフリートの言葉はそのままの意味で、そこにはなんの含みもない。
 儀式は人払いをして、呪いを解かれる者と解く者のふたりになるのが通例なのである。恐らくは、獅子さえその眼力で殺してしまいそうだと評判のローエングリン国王を前にして、シェスカが緊張しないかと心配しているのだろう。
「儀式とはなぜふたりきりで行わなければならない? いや、そうでないと魔法の力が弱まる、という理屈は分かるのだが。相手はあのローエングリン国王だぞ? なにをしでかすか分からない」
「しでかす? とおっしゃいますと?」
「たとえ国王とはいえ、聖女とふたりきりになるなど得がたい機会だろう。シェスカを国王派に引き抜こうだとか」
「国王派ですとか教会派ですとか……私にはあまり興味がありません。両者は手に手を取り合ってこの国の平和のために……」
「あるいはシェスカを人質にして教会になにかの要求をするということも考えられるな!」
「ま、まさかそのようなこと……」
「油断ならない! なんとかして儀式の場に潜り込むことはできないのか! 国王がシェスカに指一本でも触れようものならば、聖女不敬罪で叩き切って……」
「お、落ちついてください、ジークフリート」
「これが落ちついていられるものか! どうにかして儀式の場に……」
「やめないか、ジークフリート」
 穏やかに諫めるような声が聞こえてくる。
 見るとフランシスがいつもの笑顔を讃えながら主廊をこちらへ向けて歩いてきた。
 フランシスは五聖人の中で一番の穏健派で『まあまあのフランシス』とも呼ばれている。なにかとその場をおさめてくれる、聖人のお母さん的存在だ。
「シェスカは明日、大切な儀式を控えているのだ。不安にさせるようなことを言ってどうする?」
「大切な儀式、だからこそだ。無事に終えられるように準備は万端にしておくべきだろう?」
「儀式の準備を整えてくれたのは君だろう? 国王側との交渉事を全て引き受けてくれて、とても大変助かった」
「まあ、そうだが」
「もう私たちにできることはない。後できることはシェスカを信じることだけだ。もし国王がなにか企んでいたとしても、シェスカならばそんなもの軽くいなせる」
「だが」
「それに、冷静に考えてみろ。国王だってそんなに馬鹿ではない。教会に呪いを解いて欲しいと打診し、その声に応えて手を差し伸べたシェスカをどうにかしようだなんて。そうなると教会を敵に回すのは目に見えているし、貴族たちも黙ってはおるまい。国王をその座から引きずり下ろそうと画策している者がいるとはこちらまで聞こえてくる噂だ」
「あの者は、そんなもの気にもしないだろう。フランシスもあの者が今までどんなあくどい手を使ってきたか知って……」
「……。シェスカ、悪かったね。ジークフリートは君のことが心配で心配で仕方がないんだ。それで、このような戯れ言を。ジークフリート、これ以上シェスカを動揺させるようなことはやめた方がいい。なにより、シェスカが儀式を成功させることが大切なのだ。その他のことは我々が考えればいい」
「……」
 ジークフリートは不服そうな表情だったが、
「――ああ、そうだな。悪かったな、シェスカ。儀式の成功を祈っている」
「ありがとうございます」
 そうしてジークフリートは重々しい歩調で主廊を歩いて行ってしまった。
 なんとか気を鎮めてくれたようだと安堵しながらその広い背中を見送った。ジークフリートは聖人として厳格であるあまり、ときに暴走しそうなことがあるから心配なのだ。
「シェスカ」
 ジークフリートが立ち去ったことを確かめてから、フランシスがそっとシェスカになにか握らせた。
「……なにかのことがあったらこれでひと突きだ。後の始末は我々に任せろ」
 こっそり渡された短剣に、さすがに顔色を失ってしまう。
 だが、フランシスはいつもの穏やかな顔を崩さない。
「冗談だよ。しかし、ジークフリートの心配は無理からぬものだとシェスカ自身も分かっているだろう? くれぐれも気を抜かないようにね」
 そう言って、冗談だと言った割にはシェスカに渡した短剣はそのままにして行ってしまった。ひとり残されたシェスカは渡された短剣を握りつつ、しばし呆然と立ち尽くしてしまった。
(し、心配してくださっているのは嬉しいですけど……)
 シェスカはため息を吐き出し、長椅子へと座り膝の上に短剣を置いた。せっかくの心遣いだが、こんなものを儀式の間に持ち込めない。それはフランシスも知っているはずで。ああ、やっぱりこれは激励なんだな、と思うことにした。
 シェスカは聖人の中では新入りで、こんな大役を任されたのは初めてなのだ。自分にはまだ早い、とも思いかけたが、信頼して任されたことは嬉しいと思っていいのだろうと考えてこの役目を引き受けた。
 期待に応えるためにも、今日はゆっくり休もうと腰を浮かしかけたときだった。再び聖堂の大扉が開く音がした。
 今度は誰が、と思っていたら、半ば予想通りの者がこちらへとやって来た。
「お、シェスカこんなところにいたのか。捜したぞ」
 五聖人のひとりクラウスだ。
 少々くだけた口調なのは、シェスカと年が近く、時に友人のように接してくれることがあるからだ。堅苦しい教会組織の中にあって、クラウスは気軽に話すことができる数少ない人だ。
 彼は金色の巻き毛に輝く紫色の瞳をしている。その天使のような容姿に人々が思う聖人の姿を体現したような人だ、と言われているのだが。
「なあ、シェスカ。俺の考えた素晴らしい計画を聞かないか?」
「計画、ですか?」
 なんだか悪い予感がするな、と思っていたらそれは見事に的中した。
「呪いを解くために、儀式の間に魔法陣を描いただろ?」
「……ええ。あれはなかなかに大変な作業でした」
「その魔法陣のな、この辺とこの辺をちょちょいと変えて」
 クラウスはシェスカの隣に腰掛け、持っていた本をシェスカへと見せた。
「そうすると見ろ、魔界から悪魔を召喚する魔法陣になるんだ! 生贄と引き替えに願いをなんでも叶えると伝説の悪魔が今、蘇る……!」
「……。私、クラウスがなにをおっしゃっているのか分からないのですが」
「生贄はあのなにより暗闇の中で生きるのが似合う暗黒国王を捧げればいいだろ? で、願いをどうするかだが……」
「あの……私、ときどきクラウスが聖人であることを忘れそうになります」
 深い疑念を呈するように少々声を低くして言うが、クラウスは全く気に掛ける様子はない。
「そうか? まあ、教会にはきれい事だけじゃない、血なまぐさいことはつきものだしな。あいつは死んだ方がこの国のためだ。そうすれば教会権力の復興を望めるかもしれないしな」
「……。今の発言は聞かなかったことにします」
「いいか、儀式の間に入ったらあいつに気付かれないように魔法陣をちょちょいと描き変えて……」
 これもきっと明日の儀式に臨むシェスカへの激励で、冗談に決まっている……のだろうか。先ほどゲオルクが、聖女として心が澄んだ……と言っていたが、その心の持って行きようが少々困るな、と思いつつもクラウスの話に付き合っていた。
(みんな心配が過ぎるわ……。ローエングリン様はそんな方ではないのに……きっと。いろいろと黒い噂がある人ではあるけれど、国王陛下なのだから。ご自分の不利になるようなことはなさらないだろうし、滅多な行動には出ないはずです)
 しかし、儀式の後、まさかローエングリンがあんなことをするなんて、そのときは全く予想していなかった。


「白き聖女の福音 呪われ王は神との離婚を望む/伊月十和」

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